森嶋通夫先生の話し あれから50年余ですが、私が高校生から大学生になる春休みのことでした。岐阜市神田町の自由書房にブラリと入り、フッと手にした可愛い雑誌、それが1冊80円の「アルプ」という山の文芸・芸術雑誌でした。「山のパンセ」の著作で知られた哲学者串田孫一氏と、山の詩人で「山の絵本」の著作で知られた尾崎喜八氏の二人が中心となって創刊されたものです。愛読者となった私の、それ以降の山の教科書、自然との付き合い術のバイブルとなった雑誌でした。 出版元が「創文社」という社長以下5〜6人の小さな会社。ここは大学の教科書とか特殊な専門書を出版しており、当時阪大の教授だった森嶋先生の経済書を各種出版、編集長の大洞正典さんが「アルプ」の世話もされていました。私が昭和37年の4月より、御嶽山麓の朝日中学へ奉職して山国暮らしに入ると、高山市街の本屋さんへ出るのも大変なことで、愛読の「アルプ」月刊雑誌は、出版元の創文社から直接郵送されて手に入れることになりました。 縁というものですネェ。六甲山麓の高級住宅街にお住まいの森嶋さん宅では、女中さん、お手伝いさんを探しておられ、それを創文社の大洞編集長が、山の中の中学校教師の私に頼んでこられたのでした。当時は高校進学率も30%足らずで、大部分の生徒は中学卆で就職していました。受け持ちのクラスの女生徒に話しましたが、一人も希望者は出ませんでした。そんな折り、私の家内の妹が、当時一宮市内の会社に勤めていましたが、「私が行きます。行きたい」と名乗り出て、私が森嶋家へ連れて行ったのが知り合えた初めでした。義妹は森嶋家に大変気に入られました。 そんなこんなで、私自身も「アルプ」誌上に、62号に「春を迎える私の心」で画文を載せて初登場となり、今では山の伝説の芸術誌となった「アルプ」誌上に時折り山の画文集で登場する身となったのでした。日本の登山の世界には、このアルプ的精神がその底辺に脈々と流れて来ていると思っています。 本日お招きいただいた伝統ある日本山岳会そもそもの発足を思い出してみましょう。それも「アルプ誌」的でした。銀行マンで紀行文学者でもあった小島烏水氏と、ガソリンスタンド勤めの岡野金次郎青年の2人が、難行して槍ヶ岳へ登り、当時の総合雑誌に「日本最初の槍ヶ岳 登山記」を発表して鼻高々でした。ところが、岡野金次郎青年がガソリンスタンドの社長から、「これを図書館へ返してこい」と手渡されたのがウェストンの英語本。中をパラパラ見ると、「えっ、槍ヶ岳に登っとるやないか、俺たちより前に」と、アッと驚くタメゴローだったんですよネ。調べてみると、最初神戸に来たウェストンさん、2度目は横浜に在住。「よし、訪ねて行こう」と2人で訪れると、「イギリスにはアルパインクラブという山岳会がある。君たちも日本にそういう会を作ったらどうかね」と勧められました。ところがその当時は、まだまだ山に登ることを目的としたアルピニズムもない時代で、会員集めが大変でした。そこで武田久吉氏という植物学者の「東京博物同好会」が中核となって会員を集め、発足したのが日本山岳会です。 武田久吉ってご存知ありませんか? 顔を見るとヨーロッパ的鼻の高い人、それもそのはずです。明治政府になる前、江戸時代にイギリスから日本へ来ていた駐在員アーネスト・サトーという方と日本人妻の間に生まれたハーフで、長じて父の許イギリスに留学し植物学を学んで日本へ帰ってこられた学者さんでした。高山植物の権威で、私も武田先生の本はたくさん読みました。「尾瀬」「明治の山旅」など。こうして、文学者、詩人、民俗学者、自然科学者等々、色んな分野のオーソリティーが集まって結成・発足した「日本山岳会」は、百年余も昔のスタート当初から、後でスライドでもやりますが、ただ単に山頂に登る、山頂を征服するという純粋なスポーツ登山者だけから成立したとは言い切れません。また別の違った血が脈々とずっと底辺に流れてきた、つまり「アルプ」的山とのかかわりが息づいてきたと思っています。 今でも自分の教科書にして実践の指針にしているのは、京大名誉教授大島清さんの著作です。「歩行文明」など歩くことに関するものの他に「温泉手料理駄洒落は脳の活性化」という本があります。これを見ならって、私は努めて駄洒落を言うようにし、皆様のボケ防止に役立てようとしているのです。 日本語は世界に唯一最高の文化遺産、その一つの理由は同音異議語が多いこと。だから山岳は、山楽、山学の三つのガク、つまり山は楽しむもの、山には学ぶもの、これが私の山歩きのモットーです。 最近、山を楽しむ「楽山」とか、山に遊ぶ「遊山」とか、そういう言葉があちこちで流行ってきています。そうした考え方は僕の専売特許ですからね。もう20何年も前に出した「北アルプス」というちゃんとこの本に文献として残っていますョ。東海というところが出していたアウトドア雑誌「Soto」の1991年、もう20年も前の特集記事を見て下さい。「特集:山楽、山学、山岳とは〜双六共和国」が出ています。 話は脱線しますが、サントリーがビール発売に参入した時です。30年以上も前、昔の思い出ですが、あなたのラベル募集があり、1等になったらそのラベルのビール1年分が賞品ということでした。ちょうどその時は、インドの野生動物を訪ねて、インド象を見に行ったゾゥ、乗ったゾゥ!で帰国したばかりの時でした。一生懸命描いて応募しましたョ。「乗ったゾゥ。飲んだゾゥ。サントリービール」というコピー文章、絵柄はインド象の頭に自分が乗っている自画像で自信作でした。ところが今日のように駄洒落とか語呂合わせもそんなに流行っていない時代で、先取りし過ぎたのでしょうか。小学生がクレヨンで描いた父の顔が1等で私のは2等賞入選で、ラベルだけ1年分もらいました。それをはりつけた自分だけのビールを忘年会などの宴会時に配って皆をびっくりさせたものです。 「山を楽しみ山に学ぶ」をモットーにする身としては、高山短大の飛騨自然博物館学芸員ではあるものの、予算がある訳でもなく、手も足も出ません。どこかで金を取ってこなくてはと、富士フィルムさんから400万円いただきました。グリーンファンドの自然保護研究助成で、北アルプスの生態系調査をし、その成果を地元の人々の「親子自然教室」にどう活用するかという内容でした。この北アルプス調査には、私が御嶽山の植生調査の大学卆業論文で山行していた昭和36年当時、2年後輩で手伝ってくれた成瀬亮司君がやはり手助けしてくれました。卆論以来の50年来の山仲間で、自然観察会活動も常に一緒。私たち2人は「駄洒落一卵性双生児」ともいわれてきた仲、残念ながら癌で3年前にこの世を去りました。 田中嬢との出会い これも、もう20年も昔のことですが、全国高校生物研究大会が岐阜市であり、研究会後のエクスカーション、小旅行の乗鞍岳バスの旅の世話役が成瀬先生でした。ここでも又々、人生での人との出合の縁を感じます。 乗鞍岳へ行ってみて「オォーッ、ヘーェッ!」と自然を見る目がウロコ! 夏に雪があり、ハイマツの緑の樹海、高山植物の花々。「私、大阪に帰る前にもう一つ山に登りたい」とのこと。成瀬先生が高山の街のコングという山道具屋へ連れて行って、リュックを買い登山靴を買って揃え、御嶽山へ行かれる先生を紹介して同行させました。そしたら彼女は「これから山に行かれる時は誘って下さい」と言って別れて行きました。そんなことがご縁で、当時400万円の助成金で北アに入山中の私と成瀬先生に田中嬢が仲間入りしてきたのでした。彼女との出会いの最初はこんな風でした。 「おい、梅花学園という女子高校で、3年目という若い生物の先生が高山駅へ行くので出迎え頼む。あんたのカミさんを乗せて俺は行くから」と成瀬先生から電話が入ったのでした。「おお楽しみ、独身女が来るぞ」と心待ちにしていると彼女から電話が入って、「もしもし、小野木先生ですか。私田中ですけど、新幹線が超満員、立ち席でもう気分が悪くなったので、今、名古屋から帰ります」とのこと。「えっ、コラ、あんた! 楽しみに待っとるのに帰ることはないやろ。そこから岐阜まで普通列車で来て高山線に乗れば、夜中の12時00分に高山駅に着くから、必ず来い」と命令。夕方、成瀬先生到着。「おい、田中さん来とるか」「いや、こうこうこういう訳で、夜中に来るかな−−−」で、夜半に出迎えて、次の日から白出沢を登って穂高岳山行。これが、田中嬢と私のそもそもの出会いの第1ページでした。 その彼女の人生も変わってしまい、生物への見方も変わってしまいました。青年海外協力隊を受けて、結論的にはネパールへ理科の教師として行ったのでした。私たち日本の山に登っている人間にとっては、飛騨の山々は日本の屋根、ネパールのヒマラヤの山々こそは地球の屋根です。一度は行ってみたいと思うのは当たり前のことです。じゃあ彼女が居る間に行こうじゃないか。岐阜市のスポーツパルコでヒマラヤの山旅への誘いのスライド上映会を行って仲間を集め、そしたら慰問隊員が20人程集まりました。それで、彼女が12月にネパール入りした次の春、ヒマラヤのシャクナゲの花見旅お題目に1989年(平成元年)3月末に、ゴザインクント尾根へ行きました。 聞くと見るとは大違い、百聞は一見にしかずです。大方の人々は、ネパールのヒマラヤへ行くと、すごい自然があると思いませんか? 最初30年ぐらい前の年末年始に行った時には、周りの人々から「凍え死ぬぞ」と脅かされたものでした。何の何の、地図で見ると緯度では沖縄の辺りに当たる南の地です。首都カトマンズの街へ行ったらポインセチアが屋根より高い巨木、西の街ポカラへ行くとバナナの世界です。 ネパールという国は、亜熱帯の低地から8000mの氷河の寒帯までダダダーッとある国。いわば、愛知県がインドなら、美濃平坦地の亜熱帯から、飛騨の乗鞍岳山頂までがネパールで、しかも標高4000m程の高地まで段々畑が広がっています。こりゃ日本の方が緑の自然に恵まれているぞ。日本の山々は、緑の森林と清流に恵まれた季節感に富んだ自然の宝庫だと思い知らされたのでした。 この青年海外協力隊慰問名目のヒマラヤの花見旅がきっかけとなり、山楽山歩海外編の山旅がスタート。年末年始ないしは春休み期間、そして夏休み中と、ほぼ年2回のペースで、世界各地の地球の緑の着物〜砂漠、ステップ草原、サバンナ、森林〜の違った地域への旅が始まり、今年の夏7月に中国四川省ミニヤコンカ山群北山麓へ、青いケシの花を求めての花見旅、これが20周年記念の40回目でした。よくもマァーこれまで延々と続いてきたものと、我ながら感心しています。 私の山楽、山学、山岳の足跡。山は楽しまなくちゃ損じゃないか。死ぬ思いでえらい登り、行く時は「アァもう絶対来るもんか。苦しい!」ところが帰ってくると,街中に居るとまた行きたくなるのです。まるで二日酔いの後、また酒飲みたくなるのと同じ、山登りは一種の病気・中毒です。 [以下、山の楽修振り、山楽山歩海外編の40回の思い出や、日本の山での楽修登山振りのほんの一端のスライド上映に入りましたが、画像を取り込み収録できませんので、説明概要の要約を記述します] 幻燈説明概要の要約 原生林でない二次林でも、自然は多様性に富み、その新緑、紅葉の美は、割り切れない微妙さ、これこそイエス、ノーをはっきり言わない日本人の心情のバックボーンです。北アルプス=飛騨山脈の山々では、麓が夏緑広葉樹林:ブナ林帯でもっとも日本的な風景地、四季の変化の美しい所です。中腹が針葉樹林帯で、いわば北半球北方寒冷地タイガの針葉樹林の日本出張所に相当、標高2500m以高、高山帯が北極周辺部ツンドラの日本・飛騨出張所みたいな所です。岐阜の金華山から飛騨山脈まで、ふるさと岐阜の大地の緑〜植生は、いわば北半球の縮図のようなもので、生物多様性の宝庫、屋台骨です。 世界各地と比べてみましょう。モンゴルという国は、日本の4倍の大地が大草原と砂漠ばかり、降水量が少なく(ウランバートルで年間200o)樹木といったら、山の北斜面、谷間の残雪に恵まれた所にカラマツ林が斑点状にあるのみです。3500q、車の旅で大横断しても毎日毎日草の海って信じられますか。 一方、アルピニズム発祥の地スイス・アルプス。岩と氷の世界で、切り取った風景写真は凄いものの、そこに生を受け、老人クラブまでの一生涯を過ごすことを考えてみましょう。針葉樹林の間の牧草地、氷河をいただいた岩峰、夏に訪れてハイキングすれば楽しいものの、冬は白銀でマイナス何十度の世界。樹林相の単純さ、日本のような新緑に輝き紅葉に錦織なす世界とは全く別世界です。ここに70年〜90年暮らす単調さを考えてみて下さい。このことは、アラスカの旅、カナダの花見旅の駒々からも見て取れます。 ヒマラヤという世界の屋根、その山岳民族の暮らしと段々畑の世界、インドでの虎探しの旅、チトワンナショナルパークでのインドイッカクサイやワニ・トラのジャングル、キナバル山の熱帯雨林、中国奥地のチベット文化圏の花見旅、そんな世界各地の自然景観紹介スライド上映に続いて、いよいよ終局は、高山の自宅玄関前の雑木林の冬、春、秋の景観写真に。 私が何んで高山暮らしの大富豪というのか。横山大観やピカソの絵画を、500万円1000万円で買って飾っても、四六時中全く同じ絵です。10年20年経っても同じ絵柄じゃないか。ところが我が家の窓枠を額縁とした絵画は、小鳥の鳴き声という音楽付きで、しかも春夏秋冬と微妙に変化する。2階の東側の窓を開けると50号ものこの絵は槍〜穂高連峰、笠ヶ岳も左に入っているんです。ならば東に西にと4枚も、そして便所の窓の10号の小さな絵にと、私しゃ100万〜500万円の絵をいっぱい持っている。こりゃ山国暮らしの大富豪と自負できるって訳です。 さて、最初にヒマラヤへ行った時、日本ヒマラヤ協会のトレッキングでしたが、同行の東京からの若い女性の方に聞いたのでした。それは日本のエヴェレスト女子登山隊の隊員のこと、中学校教師で参加の方に、長期休んでの登山遠征を教育委員会がOK出さなかったそうです。で、やむなく退職して参加しました。ところが、この隊、女子だけの登山隊で、見事田部井淳子氏が山頂に立ちました。大成功で帰国、女子登山隊は国民栄誉賞かなんかもらっちゃったでしょう。そしたら何と東京都教育委員会の態度がポロッと、ガラリッと変わっちゃった。山頂には立てなかった彼女、学校に復職できるは、都内の学校を回って山岳講演はやらされるは、いやはやチヤホヤだったそうでした。 そんな思い出話を持っている私のところへ、2007年(平成19年)4月、山楽山歩海外編第34回で、第1回の地、ヒンズー教の聖地ゴサインクント(ネパール)へ、亡き成瀬先生の遺影をたずさえて行った時の参加者の中に、女子エヴェレスト登山隊の一員が加わってきておられました。ガネッシュ山群を背景に写っている朝食時の写真、右端の方が、私の思い出聞き話を耳にして「その中学校の女教師って私のことです」と言われたのにはビックリ仰天、ここにも人の世の出会いの縁を感じました。 今はもう婆さん?やけど。おっと女性に失礼かもしれません。かつては、アルピニズムに目覚め、先鋭的な登山をしていた方々、この女性のように世界の屋根エヴェレスト遠征登山隊員だった方であっても、年を取ってくると、やはり僕がずっとずっと実践してきたような「山の自然を楽しみ、遊山、楽山、知的山登り」に向かう、そんな山をゆったりのんびり楽しむ自遊人が増えてきているという感じがしている今日この頃です。アルピニズムを生んだ欧州アルプスの岩峰と氷河の世界、それとは全く異質な自然風土、緑の森林と清流に恵まれた日本の山々。日本人による日本の山の日本式山登り、中高年登山ブームの基盤も、そんなところにあるのではないでしょうか。 「形見とて 何残すらん 春は花 夏ホトトギス 秋はもみじ葉−−良寛」の文句をお伝えし、スライド上映を終わります。(拍手)
(平成22年11月13日 講演)
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