山岳講演会 [演 題] 山と播隆−槍ヶ岳を開山した念仏行者・播隆の生涯 [講 師] 黒 野 こ う き 氏 はじめに ただいま過分なご紹介をいただきました「黒野こうき」と申します。住んでますのは坂祝町です。普段は岐阜県、愛知県、長野県などの中部圏をよく探訪で歩き回っております。支部長の高木さんからご紹介ありましたけれど、先日、播隆さんの生誕地である富山県の日本山岳会富山支部に呼ばれたのです。そこで高木支部長さんとの出会いがありまして、今日こういう形で皆さんの前で話すことになりました。僕としては、岐阜県で一番権威ある山岳会に呼んでいただいて播隆さんのお話ができること、非常にうれしく思っています。僕は調査というか取材を始めてもう27、8年くらいになります。美濃、飛騨、尾張、信濃、富山、いろいろ回っていろんなことが分かってきました。今日はそのへんの話をいたします。 山岳会の方だと山の小説家新田次郎さんの「槍ヶ岳開山」という小説をご存知だと思いますが、あれはまったくの嘘です。出てくる人物は全部本物なのでちょっと困ったものですが、話しは嘘です。去年だったですか、剱岳のあの話も半分は本当ですが、半分はデタラメです。陸軍の測量部がやったのは本当ですが、小島烏水さんたちがやったというのはデタラメです。私の知ってる山岳史をやってる方が、ポスターの段階で怒っていましたね。「あんな雪のあるとこ調査に行くわけないじゃん」というようなこと言ってました。 僕が最初に播隆さんをやっていた頃に、新田次郎さんが来ていろんな人を取材するのです。「おっ、格好いいな」と思ったのですけれど、結局は小説を書くための取材でした。僕らがやってるのは、事実を積み重ねて真実を引き出してくるという仕事なのです。この違いはものすごく大きいのですね。文学とか小説家の方たちは虚構を語って真実を語るのです。虚構を語って本当のことを言うんだというのが誇りなのです。それを僕らみたいな研究者が、例えば新田次郎さんの書いたものを比較して批判するのはちょっと土俵が違うのです。 けれど、新田次郎さんはかなり高名な方で、僕も最初新田次郎さんの小説から播隆さんへ入って行きました。それで、事実の違いを自分の中から追い出すのにすごく時間がかかりました。その時に一番助かったのが、槍ヶ岳山荘の穂苅さんが親子二代で書かれた播隆さんの本です。僕はそれを教科書がわりにして、出てくる地名とかいろんなのを全部チェックしました。ほぼ100%行けるところは行きました。例えば、軸が150本あると150本全部見に行くのです。 揖斐川町に播隆さんが開山した一心寺さんというお寺があるのですけれど、そこも1回や2回じゃなく数十回行きました。そこの庵主さんたちと仲良くなって、過去帳をお借りできるぐらいの関係を作って穂苅さんの本を調べました。穂苅さんにとってはあんまり面白くない人だと思うのですけれど、穂苅さんの書いてることを検証する作業をやっていくのです。いろいろ食い違いも出て来ていますが、自分にとっては穂苅さんの本のおかげで新田次郎さんの小説から離れられたのが一番良かったですね。調査していくと、例えば一つの軸とか念仏講があると隣にも似たものが出てくるのです。どんどん新しい史料が出てきてなかなか離れられなくなって27、8年経った、というのがこれまでの経過です。 播隆との関わり そのうち、円空と播隆が重なったエピソードも聞くことがありました。例えば、美濃市の瓢ヶ岳へ行った時ですけれど、円空のお堂が山頂近くにあるのです。そこを見に行った帰りに登山口の民家へ行きました。そこは「円空の里」と言われている所で、家宝として伝わってる托鉢椀があります。木のお椀ですけれど、「これは先祖伝来の円空さんからいただいた大切な物なんだけども、本当は播隆さんの物なんです」と言うのですよ。実際、そこに文政何年播隆と書いてあるのです。播隆の物だけれど、ここの里では円空さんになっていまして、完全に円空と播隆の伝説というか伝承みたいなものが重なっていました。 円空が終わった後に播隆のことが頭にあって調べ始めたら、自分の回りにたくさん播隆さんの資料とか伝説とかが残っていました。各務原市に仏さんが寝たような形をした伊木山という低い山があります。最初に調査を始めたのが伊木山の麓で、そこの里に播隆講がまだ残っていました。播隆講のおばあさんの山田キナエさんの所に行ったのですけれど、「キナエさんが亡くなっちゃうと、僕が今聞いている播隆さんの伝承とかいろんな御詠歌も消えちゃうな」と思いました。ビデオや写真で撮ったり記録に残すことをしていかないと途絶えてしまうな、ということに使命感を感じて、途中から自分の本を書くためじゃなく史料を残そうという気持ちでやるようになってきました。 例えば、播隆さんの軸を掲げてやってる播隆念仏講というのは僕が調べた中では27か所ありましたけれど、すでに半分位はもうやっていません。今はすごく珍しいのですけれど、関へ行った時、大きい数珠を回しながら念仏講をやってました。毎月輪番でやっていた所が、大変なので年に1回だけにしようかという形で12月に集まって1回念仏講やって終わりとか、予約して取材に行きましたら3人でやってたんだけれど1人が脳梗塞になられて今月から止めますという状況でした。 今はすごく文化とか歴史の変わり目だと思います。外国の文化が入ってどんどん変わっています。例えば、今ハロウィンというのを子供たちすごくやるのです。僕らは秋祭りだったのですが、今はハロウィンに変わっちゃっている。子供達に聞くと、秋祭りよりも神社のお祭りよりもお菓子をもらえるハロウィンの方が楽しいと言うのです。そういうのを聞くと、江戸時代から明治になった時よりも今の時代の変わり目の方が日本の本質的な変わり方していると思います。 播隆講とか念仏講、観音講を調べ回っている中で、今がちょうど過渡期で、これは記録に残さないと多分誰も知らない状況になってくるなという感じを僕は強く受けます。後世に残す仕事を誰かしないとダメだいう感じになってきます。それで、多少は使命感を持って細かくビデオとか写真とかを撮り、必ず記録として文章に残すという形で播隆さんの調査やってまいりました。 そんなことで、僕は円空さんをやる中で播隆さんと出会って播隆さんをやっていますが、最初は内心穂苅さんの本を超える本を作ろうと思っていました。穂苅さんが2代かかってやったのよりもっと充実した史料編もつけてやろうという個人的な発想でやってましたけれど、途中から競う気持ちは捨てました。捨てて今ネットワーク播隆という研究団体を作っています。個人的な仕事よりも皆で播隆さんを世に残す仕事をやろうという気持ちになって、非常に気が楽になりました。播隆さんの検証、史料批判をしなければならない時期に来ているという考えで、播隆さんの研究を続けています。 職業は画家です。僕の兄も画家で二人でくろの美術教室をやっています。けれど、塾の先生をやるのは週のうち3日間だけで、後の4日間はフリーです。絵を描いたり詩とか文章を書くような仕事をあとの4日でやるということで、僕は毎週最長4日はフィールドワークができるのです。僕の同級生からは「毎日日曜日みたいな人やね」と言われるのですけれど、実際はちゃんと3日間塾の先生で子供とか大人とか受験生の方に絵を教えて、その月謝で生活してます。 前置きが長くなりましたが、これから播隆さんの全体像を最初にお話して、今日は山岳会なのでタイトルのように「山と播隆」ということで山の播隆さんのお話をいたします。 天明6年というと1786年ですけれど、江戸時代の後期という時期に播隆さんは富山市の河内という所で生まれます。そこにいた人たちが全部山を下って、今、河内の集落は廃村になってますけど、河内村という所でお生まれになりました。 自伝的なものが生家の中村家に残っているのですけれど、若いころから浄土真宗の熱心な信者でした。小さな集落ではお寺を建てることはできないので、寺院の代わりわする道場というのが向こうにはたくさんあるのですけれど、それをやってる家に育ったためと思います。お兄さん、お姉さん、播隆さんの3人兄弟で、その中の一番下ということもあったのか分かりませんが、十代の中頃に道を求めて家を出ます。 家を出ますと死ぬまで家には帰りません。近くまで来ていても1回古里を出たら2度と古里の地を踏まないというのも修行の一つだったようで、あえて生家に戻らないという形で生涯を終わられています。だから、播隆さんは肉親の死に目には1回も会っていません。お父さんお母さん、それからお姉さんも先に亡くなるのですけれど、例えば死んで1年2年後に手紙で知るような状況で生涯を送っています。 十代の中頃に家を出て、京都、大坂、それから何かのご縁があって名古屋城下にも来ました。いろんな宗教遍歴をしながら最終的に浄土宗の宗門に入られて、江戸本所の霊山寺に入って正式に勉強して浄土宗の僧侶になられます。その後が播隆さんらしいのですけれど、普通の僧侶のように寺院とかの組織の中で働くのでなく、当時の熱心なお坊さんたちは皆そうですけれど、求めて山岳とか霊場に入って修行をなさるのです。 そういう流れで育った播隆さんですが、浄土宗のお坊さんとしての位はものすごく低いのです。普通のお坊さんがちょっと講習受けるともらえる位よりずっと低いのです。播隆が死んだ後に弟子たちが路頭に迷うから教団の資格を取りなさいと言われて、亡くなる前年の天保10年にわざわざ江戸まで行って大律師という資格を取って帰って来るのですけれど、資格の無い本当に信仰だけでやっていた人です。 円空もそうですけれど、高僧名僧と言われるような人じゃなくて聖と言ってますね。聖マリアの聖と書くのですけれど、江戸時代には聖という民間の宗教者がたくさんいたみたいです。そういう人たちが各地を回って、例えば伊勢神宮の御札を配る御師とかいう形で信仰的なもので庶民との掛け渡しをやっています。お参りにくるとそこのお寺とか神社の宿坊にに泊まる手配をしたりするような半僧半俗のお坊さんです。近世の聖の無名戦士と僕は言っているのですけれど、庶民の宗教的欲望や信仰的需要を満たしていた大切なお坊さんです。その中の代表格が円空であり播隆ですけれど、そのへんの研究がまだほとんどされていません。大学のようなアカデミックな所ではなかなかそこまでいってなくて、例えば円空学会のような愛好者の集まりや僕らみたいな民間人が集まって聖の生活を調べてるような状況です。将来的にはそのへんのことが分かってくると思っています。 江戸時代は二百数十年ありますが、江戸幕府ができて最初から江戸が中心じゃないのです。円空さんがいた前期、元禄文化の頃はまだ京都とか大阪の上方が経済的にも文化的にも中心です。それがだんだん江戸の方に移っていきます。江戸時代の中頃がちょうど中間で、後半は江戸が経済も社会も政治も全部中心になっていきます。文化的には元禄文化の頃は安土桃山とかの文化が伝統的に受け継がれていましたが、普通の庶民が文芸とか絵を楽しむ、いわゆる市民生活の中で文化を享受する時期が化政文化です。狂句とか川柳の世相批判とかを庶民が面白おかしくやるのです。当時の世界を見渡しても、普通の名も無き人たちが自分たちで五七五を書いて投稿して景品をもらうような文化をやってる国は本当に無いのです。さらに浮世絵がありますでしょ。信州のそういう関係の方に聞いたのですけれど「あの当時、例えば北斎たちがいた頃に絵画を楽しんでる市民は他の国にはいませんよ。だから日本人はすごいですよ」と言われてました。 江戸時代の中頃から後半にかけては、本当に市民文化というか庶民の文化が花開いた時期です。今ほど体制がしっかりしていないので、大自然の脅威が来るともろに生活が影響を受けますけれど、それでも何とか自分たちが生活を楽しむような雰囲気があったようです。僕なんか戦後生まれなので、鎖国と封建社会の江戸時代という見方しかしていなかったのですけれど、実際に円空さんや播隆さんをやり始めていろいろ川柳とか浮世絵の世界が分かってくると、ただそれだけでは語れない江戸時代の庶民の本当に花開いた文化の中に僕たちの先祖がいたのだなというのが分かってきました。江戸時代の文化はかなり面白いのですよ。 また、村とか町へ行くと小さな石仏とか石碑がありますね。あれは江戸時代の中頃にもありますけれど、後半になると一気に増えるのです。あれは寺院がやるのではなくて、有志がポケットマネーで建てるのです。寺院は寺院の務めや仕事をしているだけで、その時の願主になるのが播隆さんのような回国遊行をしている聖というお坊さんです。聖が来て発案して村人に声かけて念仏塚を作るのです。それも全部ポケットマネーなのですよ。 僕も岡本一平さんの記念碑を作ったことがありますが、百何万も市民から集めて大変でした。そういうことを経験したので、あの何気なく見ている誰が作ったか分からない石碑を、江戸時代の僕らの先祖がよくやったなと思うのです。寺院さんの方のお付き合いした上で、自分たちの思いでやっているのです。そのへんのところが面白いなあと思ってます。 そういうことも播隆さんやっているとたくさん分かってきました。例えば、播隆さんに南無阿弥陀仏と書いてもらったものを石碑にしたのを現在82基確認してます。美濃、尾張、信州が多いのですけれど、82基あります。中にはものすごく大きいのもあって、それを建てるのにお金も労力もかかっただろうなと思います。飢饉とかいろんなこともあったのだろうけど、ちゃんと作っていくのですね。今忘れられて朽ち果てたり倒れたり草むらの中にあったりとかしてますけれど、僕らの先祖がやったのだなと思うと、やはり何らかの形で後世に伝えていきたいなあ、と播隆やりながら本当に思っています。 円空さんもそうですけれど、播隆さんは民間の念仏講とか観音講とか庚申講とかいろんな所で特別ゲストで呼ばれて、そこで生き仏のような形で生きてた民間の宗教者です。そのへんが尊いなと思います。たまたま円空は円空仏があったから残り、播隆は山岳史に名前を残したから残ったけれど、山岳史にも無い仏も作らない聖がたくさんいます。 僕が住んでいるのは坂祝町の取組地区という所ですが、そこにも念仏塚があって「利専」と書いてあるのですね。誰に聞いてもわかりません。「利専」が取組の誰かの先祖たちを集めて作ったのが残っているのだけれど、「利専」そのものがいくら聞いても分からないです。そういうのが全国各地にある。国の政治とか公の歴史には残らない庶民のドラマがそこには絶対ありますから、そういうのをもっと知りたいなあと思います。それを少しでも語り伝えていくのが播隆をやる意義かなあと思っているのです。 このように「里の播隆」とその時代背景をお話しして「山の播隆」に入りたいと思いますが、「山の播隆」として世間に知られているのは、まず伊吹山の山籠修行です。最初南宮山で修行されて、それから3、40代の時に縁があって伊吹山に籠っています。僕らは伊吹山禅定と言ってますけれど、もうその時にはすでにたくさんの方が集まっているのです。 弟子の方が残した「行状記」という一代記が残っていますが、それ見ると福井県、滋賀県、愛知県、岐阜県の人たちが播隆の元に集まっています。それこそ名僧高僧というかその当時の住職たちも、全く位の無い行者の播隆を慕って来ているのです。播隆さんの所に行って話を聞くか対面している。だから、槍ヶ岳開山という業績が無くても播隆さんは歴史に残る人だったと僕は思います。 その後、何かのつてで笠ヶ岳の方に行きます。そして、上宝の岩井戸という所の山の中腹にある杓子の岩屋という大きな岩屋で修行されるのです。円空さんもそこで修行していたので、僕が最初にそこに行ったのは円空さんで行ったのです。播隆さんがそこで修行していた時、地元上宝村の椿宗という和尚がいる本覚寺という大きなお寺があり、そこのお坊さんたちと一緒に今まで廃ってた笠ヶ岳登山をし、さらに登山道を整備して再興をやります。その後また伊吹に帰って、2年後に信州へ行って一番有名な槍ヶ岳開山をするのです。 伊吹山、笠ヶ岳、槍ヶ岳という三つの大きな足跡が山岳史に残っていますけれど、その下には名も無い聖がたくさんいるのです。例えば、笠ヶ岳再興を記念して66人で集団登山するのですが、その名簿が残っています。それ見ると大阪の行者とか四国愛媛の行者とかの名前が書いてあるのです。播隆の噂を聞いた全国で遊行してる聖が村人達と一緒に登っているのです。その人たちも何らかの形で庶民の中に入っているはずですけれど、ただ記録が残っていないのです。本当に里の播隆の動きの中で山の播隆という功績が残ります。 新田次郎さんも穂苅さんもそうですが「槍ヶ岳開山」なのです。「槍ヶ岳開山播隆上人」というのがキャッチフレーズになっています。けれど、僕は「槍ヶ岳開山をした念仏行者播隆」と必ず念仏行者を入れてます。いろんなカタログとか本にも必ず念仏行者という言葉を入れてます。槍ヶ岳を開山したということで多少世に知れ渡っていますけれど、実際は庶民の中に入っている念仏行者で庶民のお坊さんです。その辺をもっと強調しないと、播隆さんがただ山登りしたお坊さんで済んでしまうのです。 あくまで槍ヶ岳開山は結果であって、そのために山に登ったわけじゃないのです。庶民を山頂に連れて行くのが目的です。正式な記録で残っていますが、実際に揖斐川の人が播隆について山登りしています。決して近代登山が始まってから槍ヶ岳は開かれたのではなくて、すでに江戸時代の後期に播隆さんの教えを聞いた例えば岐阜県の人が、信州まで行って播隆さんの案内で山頂に立っています。誰が登ったか分かりませんけれど、普通の庶民の人たちが登っています。そういう事実が分かって来ました。 はっきり言って、播隆にとっては登山することは何でもないのです。例えば槍ヶ岳開山と言いますが、播隆にとって山頂に登るのは何でもないのです。ネットワーク播隆の大沢さん(法蔵寺住職)が信州でテレビ映画を作った時、槍の穂先に登るのを大変ドラマチックにやりましたが、命をかけた山の行者で修験道をやってる人があそこを登るのは、はっきり言って簡単です。それよりも、食料とか防寒もあまりない服装で山頂近くに2ヶ月3ヶ月留まって念仏行するのです。それがすごいのです。さらに、播隆はそこに道を作って鉄鎖もかけて里の念仏講の人たちを槍ヶ岳念仏講という形で山頂に連れて行くのです。それが尊いのです。初登頂云々というのは当時の人たちにとってはあまり意味がなかったのではないかと思います。 播隆の書いた「迦多賀嶽再興記」見ると「槍ヶ岳に参詣したい」と書いてあるのです。参詣とはお参りのことですけれど、例えば信州の庄屋さんが播隆について登った時も、槍ヶ岳登山じゃなくて参詣と書いてあります。だから登拝信仰というか信仰のための登山なのです。例えば小島烏水とかが山岳会を作って信仰登山から解放するという形で近代登山というのは始まっていくのですけれど、その前史として庶民たちが登拝信仰で山に登っているのです。 庄屋日記に「揖斐川の衆4人」とか出てくるので嬉しくなってしまいます。江戸時代に揖斐川の衆が4人、坊主の岩屋で寝泊まりして播隆の案内で山頂に立って帰ってくるのです。それも天保飢饉の最中に。これはすごいことですよ。彼らは命懸けで来ているのですね。飢饉の大変な時に来てるのは、単なる遊びじゃないですよ。多分何かの願をかけて槍へ登っています。だから山頂に登れるか登れないかというレベルの登山じゃ無いと思います。 こう言ったら登山家の方に叱られるかもしれませんけれど、確かに槍に登るのは大変です。けれど、例えば8000mの誰も行かない所へ一人で登って行くとかいうレベルの登山じゃない。播隆が登っていた頃、記録に残ってるだけで上高地には山小屋が14箇所もあるのです。槍沢ロッジのちょっと下にも二ノ俣小屋があった。いわゆる杣の人たちの小屋があるのです。大体250人くらい常駐して木を切っている。木を切りすぎて松本藩から叱られるのですけれど、そのぐらい上高地は開発されていました。決して未開の地ではないのです。里の人たちはそこが仕事場ですから、そこの人たちの話を聞いて播隆さんは登っていくのです。二ノ俣小屋とか坊主の岩屋、僕らは播隆窟と言っていますが、その存在とかは多分事前に地元の情報として伝わっていたと思います。そのような情報を得て里の人にサポートしてもらいながら播隆さんは槍に登って、そこで修行したのです。 今は開山と言ってますけれど、播隆さんは開山という言葉は使っていません。開闢と言ってますね。天地開闢という言葉がありますが、より多く開くという意味です。結局、播隆さんが目指したのは、開山とか初登頂じゃなくて、山を開闢して登山道を整備して鉄鎖をかけて一人でも多くの人を山頂に上げることなのです。最初は藁で作っていましたが、最終的に浄財を集めて鉄鎖をかけるのです。鉄鎖をかけて皆がスルスルと山頂に立てるようにしたのです。播隆が南無阿弥陀仏と書いて念仏講に与えた軸が残っています。数本の中に「槍ヶ岳念仏講授与」と書いてあるのです。だから、多分岐阜県にもあったと思いますが、すでに信州側では槍ヶ岳念仏講が結成されていたのです。一人二人の庶民が登ったのじゃなくて、念仏講の人たちが何らかの形で集団登山している。だから鉄鎖が必要だったのです。そして登山道を整備して、「坊主の岩屋を宿舎というか休憩所みたいにしてくれ」ということを言い残して死んでいかれたのです。 何で槍ヶ岳に登るのが宗教的な救いなのかを考えたとき、ブロッケン現象だと思います。霧の中に自分の姿が浮かび出て仏さんに見えたりする現象で、播隆さんは御来迎と言っています。播隆が伊吹山で禅定やってた時は多分御来迎に会ってなくて、笠ヶ岳を再興した時に初めて会うのです。そのことが「迦多賀嶽再興記」とかそれが残ってる上宝の本覚寺の勧化帳とかに記録が残っています。御来迎の様子とかその感動が書かれています。 それ読むと、例えば、最初に笠に行った時御来迎に会うでしょう。その後、登山道を作ってから18人村民を連れて登っていくのですが、登っていく時に何回も出て来るのです。最初に登った人が御来迎に会う。遅れて来た人は見られなかったので、播隆とともに皆で御来迎が出て来るように念仏するのです。そうするとまた御来迎がバーッと出て来て、18人全員が御来迎を拝し感動した、ということが書いてあるのです。正式な記録で残ってます。 笠ヶ岳を再興した時、播隆の心に一番大きかったのは山頂で御来迎という仏に会ったことです。今まで里の念仏講で仏様の話はしていただろうけれど、本当に仏を見たのですから。「迦多賀嶽再興記」を見ると、杓子の岩屋が発心の地で、そこから1里ごとに石仏を置いていくのです。宗教的に位置づけて下品下生から九つの段階で最後が上品上生で阿弥陀如来の一番いいのを山頂に奉納するのです。そして、笠ヶ岳そのものを「蓮葉台」と言っているのです。蓮葉台というのは台座のことです。笠ヶ岳が台座になって、そこにブロッケンの仏様が来るのです。槍の山頂でブロッケンが来ると、槍ヶ岳そのものが台座になるのです。多分ご本尊が来たと思ったでしょうから、すごい体験だったのです。 その頃は天保飢饉の時だったのです。飢饉の時ですけれど、中山道から集めた鉄鎖をワッショイと皆が担いで上高地へ入った。その段階で松本藩がストップさせるのです。飢饉になったのは播隆たちが山頂を汚したからだという変な噂が流れたみたいです。記録にそう書いてあるので多分そういうことだと思いますが、数年間差し押さえられるのです。天保11年前後、播隆が亡くなった年ぐらいに多分槍に鉄鎖がかけられます。 その天保飢饉の間も人々はずーっと槍へ登っているのです。例えば揖斐川の衆が何で4人も行ってるのかなと思うとき、心の平安とかいうレベルじゃなくて、米を作っていて播隆について槍に登って仏に会えば本当に収穫が増えるだろうと願って行ったのだと思います。家族を置いて行くのですから、そういう思いでないと男たちは行かないと思うのです。 いつも雨を降らせる雲を初めて足下に見るのです。その感動はすごいと思います。僕は雲海が好きで、それまでテレビとか写真で見てたのですが、初めて実際に雲海を見たときは感動しました。マスコミとかメディアが無い当時、怖い雷が来て雨をバッと降らす雲を初めて足元に見て山頂に登った時の感動は、よく言うのですけれど、宇宙飛行士が初めて宇宙船から青い地球を見て感動するのに匹敵するぐらいだと思います。 実際に「迦多賀嶽再興記」のそばにある記録を見ますと、こう書いてあるのです。登山道を再興して18人でお礼に登って行くのです。雨が降らなかったのでぜひ雨を降らしてくれという願をかけて登って行くのです。それで御来迎に会うのです。御来迎に会って感動してる時に時雨が降ってくるのです。皆びしょ濡れで下山してくるのです。多分、すごい信仰心がブワーッと燃えたのじゃないかと思います。 そのような体験や感動を、播隆さんはあちこち歩いて行って説くわけです。ただ念仏したら助かりますよと本で読むような感じじゃなくて、本当に遠い所からそれこそ食うものも食わずに遊行してきて播隆が説くお話の説得力は、僕がブロッケンが素晴らしいとかいうレベルじゃないですね。聞いている皆さん、すっと入っていっちゃう。信州に務台家文書という庄屋さんの文書があるんですけれど、それには播隆さんを「大行者」と書いてあります。文句なしに大行者です。播隆が村に入って来るでしょ、もう大行者というのはすぐ分るのです。日常生活を見ていると、食べ物のこととか着てるものとかですぐ分るのです。 だから、そういう播隆を見たら理屈抜きで「あっ、この人は本当のお坊さんやな、言ってることとやってること本当だな」と分かるし「この人の言うことだったらちょっとついていってみようかな」という気になったのじゃないかなと思います。僕が「明日伊吹山に行くで皆行かん?マイクロ出すで」と言うのと全然レベルが違います。「ついてこい」と言った時の説得力、この説得力がすごいのですね。それが無いと村人は登らないですよ。 円空もそうだったのです。円空が来て仏を彫ってくれた時の感動とか、円空からくる人徳というのか、そういう人間力みたいなものは多分すごかったと思います。円空は400年経っていて実際に誰も円空を知らないけれど、今でも美濃地方へ行くと円空仏の写真をお守りに持っている人がいたりします。だからカリスマ性というようなすごいものを民衆に与えてることは間違いないのです。庶民の中でやってる里の播隆さんの姿も、とにかく名僧高僧ではないけれど実際にやってる信仰の仕方を見て「この人は間違いないからついて行こうか」という感覚で、民衆を引きつけていたのです。 播隆さんが里にいる時何をやっているかというと、念仏講の人たちが招待するのです。播隆さん呼んで念仏講やって説法聞いて名号や摺物をもらう。念仏講の人たちも播隆さん呼ぶと、町おこし村おこしで活性化になるのです。例えば、ある寺を借りてやる時は、その前に念仏講の人が寺を掃除したり門をきれいにしたりするでしょ。播隆さんが来てありがたい話して皆がお賽銭を出す。播隆さんはお賽銭に手をつけなかったと言われていますから、寺としては損なことは何も無い。本当にいいことづくめで自分たちの信仰を高める生き仏みたいな感じで、播隆さんは庶民の中を渡り歩いて、いろんな所に呼ばれて回っています。 けれど、播隆さんが白紙の状態から念仏講を広めたのではなくて、その当時念仏講とかはかなり庶民に入っているのです。念仏講とか観音講とか言っても、やってるお経とか見ると全く一緒なのです。ありがたいことなら何でもやっちゃおうという感じで、たまたま念仏が主体だから念仏講、お参りするのが観音さんだから観音講、庚申さんのお祭りだから庚申講という感じで、ほとんど差がありません。 播隆さんの修行について考えると、多分ある時期から横になって寝ていないと思うのです。24時間ずっと修行をやっている本当の行者です。だから早く死んだのだと思うのです。数えで55歳で亡くなるのですけれど、亡くなるまでずっと修行の連続だったと思います。 笠に登った時の記録の中に「槍ヶ岳の山頂に参詣したい」と書いてあるのです。参詣したいというのは登山したいということではなくて、あすこを修行の場にしたいということだと思います。槍ヶ岳に生涯で5回登っていますが、登頂して帰って来るだけじゃないのです。登頂するのは当たり前で、そこに留まるのです。ほぼ3ヶ月くらい留まって念仏行やるのです。 新田次郎さんの小説を読むと、その間の食料については十分に準備したように書いてあります。新田さんの小説の中に山案内人の穂苅嘉平というのが出てきます。播隆さんが修行の食事なので、嘉平は「お坊さん、山に入ったら山の掟に従ってください」と言うのです。播隆は折れて「じゃ山に入った時は嘉平さんに従います。」ということになるのですけれど、仮に嘉平の言う食事をとったら播隆は破戒僧になっちゃうのですよ。今比叡山で千日回峰行を誰かがやってるか分かりませんが、その宗派によって戒律があるのです。食料を十分に摂るとか暖房のために衣服をたくさん着て調子いいとき登っていては行にならないのですが、そのへんのことを新田さんはあまりご存知ないというかご理解がなかったのじゃないでしょうか。そう言ったら叱られますが、僕はそう思います。 けれど、新田さんの小説は現代人にはすごく説得力があるのです。なるほどなぁと僕も最初は思ったのですが、そのうち「あれ、そんなことしたらおかしいじゃん」と気付いたのです。そば粉を溶いたのを早朝に食べてもう1日何も食べないとか塩気の物は食べないといういわゆる木喰戒をやっているのですが、そういうことやったら木喰戒が飛んでいっちゃいます。行をやる意味がなくなるのです。 行の場所も居りやすいようなテントを張るのじゃなくて、行のルールにのっとっているのです。だからきついのです。実際に凍傷で足の指を2本落としています。槍じゃなくて近場の山ですけれど、冬場に凍傷で無くしてしまうのです。 行をしながら3000mの槍に登るのですから、僕らが思う登山とは違いますね。僕も最初は登山の喜びと登拝信仰の喜びとは多分一緒だろうと思っていましたが、最近ちょっとだけ年取ったせいかも知しませんが、やはり信仰の部分がかなり強いのじゃないかと思うようになりました。登拝信仰というか登山信仰のために登っているのであって、その副産物として登山の喜びは感じたかも分かりませんが、そのためには絶対登っていないのですから。 例えば、槍の鉄鎖の最初は藁だったのですけれど「善の綱」と書いてある。「善の綱」というのは善光寺さんにありますが、仏像の指に紐を付け境内に持って来て、そこにいる人たちがさわって仏縁を結ぶことなんです。だから「善の綱」という名前をつけただけで播隆が何を考えてきたかよく分かります。槍の山頂に善の綱を伝って立った時に御来迎が来て仏と対面する、すごかったと思いますよ。 播隆はそれまでも熱心な行者だったのですけれど、笠ヶ岳を再興した時に登拝信仰をある程度自分の中で固めたのじゃないかと思います。そして、その後槍ヶ岳を開山いわゆる開闢する中でそれをもっと組織的にして、御来迎に会うための登拝信仰を目指して里の念仏講を槍ヶ岳念仏講に昇華させたのです。ただ55歳で亡くなるので完成はしていませんが、もう少し長く生きてると形は残ったのじゃないかなと思います。 播隆さんが中山道を行き来してた時は御岳講が一番盛んな時です。それを横で見て、それに負けない槍ヶ岳念仏講にしたいという気持ちだったのではないかと思います。信州の洗馬宿で旅籠をやっている人が中田又重に出した文書がありますが、それは「槍ヶ岳念仏講が来た時はうちの宿を定宿にしてください」という願い書なのです。一人二人の農民がついて登ったレベルじゃなくて、定宿にしてくださいという願い書が残るぐらいある程度組織化はされていたのじゃないかなと思うのです。 ただ残念なのは、播隆が天保11年1840年に亡くなるのです。その後幕末になって明治維新になって近代化が始まって修験道禁止とか神仏分離とかという政府の国策でガターッと影響を受けるのです。それが無ければもう少し残っていただろう、もう少し槍ヶ岳念仏講も形になっていたのじゃないかなと思われます。 中田又重についてはひとつのドラマがあります。その当時、信州から飛騨へ行くのに公式には野麦峠越えしかなかったのです。大回りして信州と飛騨をつないでいたのですけれど、上高地を通って飛騨に抜ける直線コースを作ろうという話が信州側でもち上がっていたのです。今安房トンネルが開通したように、昔の人も新しいハイウェイを作ろうと考えたのです。そして実際に上高地まで作っちゃうのです。ちょうど播隆が笠ヶ岳をやっている頃です。 信州側の代表者が中田又重で、飛騨側の道が無いのを困って飛騨に椿宗さんを訪ねるのです。播隆さんの記録が残ってる本覚寺の和尚さんで、その人にいろいろ知恵を貸してもらって飛騨側の人が動いてようやく開通するのです。この道は途中で廃道になってしまうのですけれど、直線コースで松本と高山が結ばれて物産とかがある程度行き来ししました。 その時に現場監督で一番やってたのが中田又重で、彼はそのことで播隆と会うのです。信州側の商人とか米穀商とかいろんな人が新道のためにお金を出していた。そういう経済界の動きの中で中田又重さんが現場監督で動いていて、そこに播隆さんが信仰的な思いで槍ヶ岳開山したいということです。例えて言えば、万博で岡本太郎が太陽の塔というシンボルタワーを作ったように、槍ヶ岳開山は時流にあったいい行事だったと思ったのでしょう。中田又重も最初は信仰心じゃなかったけれど播隆さんについていて、後に感化されて播隆さんの本当の信者になるのです。そして、生涯播隆さんについて行くのです。 その時点で中田又重は地元に居れなくなるのです。今でも大変なことですが、信じてついていったのにルートが違う、自分のところを通らないというのが分かって中田又重は失脚するのです。その頃にさらに奥さんと長男が死ぬのです。すごくガクッときたと思います。そうして槍ヶ岳開山にグッと入っていき、播隆と一緒に槍ヶ岳を民衆に開放するような仕事に没頭していくのです。すごいドラマだなぁと思いますが、そういうこともありました。だから、信仰と言っても民衆が動くには何か実利というか活性化みたいものが必要なのです。それプラス信仰みたいなところがあったのかもしれないなと思います。 話しを戻しますが、最初伊吹山禅定ということで山籠修行して、ある程度の基盤をつくります。その時の基盤がもとで、今も残っています揖斐川町の一心寺ができます。念仏講も伊吹山山麓にたくさん残ってます。中心は美濃地方ですが、近江のほうにも残っていました。 播隆にとって伊吹山禅定というのが本当に大きいのです。その時の行が並じゃないのです。食事の行法とかいろいろ自分の流儀でやっていますが、例えば塩気とか煮炊きしたものとか火を通した湯を飲まないとかいろいろやるわけです。普通の人がやると体をこわすと思います。しかも、それで山岳地帯を歩くのですからすごい行だなと思ういます。 そういうことで、伊吹山ではもうすでに民衆がたくさん集まって来ます。播隆が開いた寺で現在残ってるのは揖斐川町の一心寺と岐阜市の正道院の二つです。もう少し播隆が生きていたら、中山道大田宿の脇本陣の林さんの娘が出家して播隆の弟子になるのですけれど、その方の弥勒寺とか羽島市の観音堂とか愛知県の放光寺というのが播隆の寺になったはずです。そのような勢力がある所でしたけれど、早く亡くなったの今残っている二つが播隆さんが開いたお寺ということになっています。 笠ヶ岳再興で一番重要なのは、登拝信仰を確立したきっかけになったブロッケンに会って自分なりに宗教的な位置づけをして、念仏講を槍ヶ岳念仏講に昇華させていくというような思想を持ったことじゃないかと思っております。 播隆は笠ヶ岳を再興しますが、最初に笠ヶ岳を開山したのは誰かということです。深田久弥さんの百名山には開山は円空と書いてあるし、ほとんどの本にも円空開山と書いてある。何故かと言いますと上宝の本覚寺、椿宗さんのお寺の本覚寺に播隆の「迦多賀嶽再興記」が残っています。再興記ですけれどその冒頭に円空さんのことが出てくるので、そこを見て開山と言っているのです。 けれど、他にたくさん文書があるのです。椿宗が書いた「大ケ嶽之記」とか「迦多賀嶽再興勧化帳」という寄付金集めた時の記録が残ってます。それによると、円空の前に道泉が登ったと言っているのです。本覚寺を中興した道泉和尚が笠に登ってますと書いてある。播隆の生家の中村家に残ってる文書にも「初登山」て書いてあるのです。初登山が道泉で、道泉が登って廃れてたのを再興したのが円空さん、その後南裔という高山の和尚さんのグループが登っている。その後また廃れたのを播隆さんがやるということで、再興といっても3回目か4回目の再興です。 播隆が残した記録は「迦多賀嶽再興記」で開山記じゃないのです。皆なぜ間違えるのかなと思います。再興記の冒頭に書いてあるから円空なのかなと思うけれど、冷静に考えると「再興記」ですから「あ、再興が円空か」と思うのがいいのじゃないですか。播隆さんも道泉のことを書いてます。今記録に残ってる中では播隆とか椿宗が書いた文書に道泉が登ったということを書いてますから、開山は道泉というふうに言ったのがいいのじゃないかな、というのが播隆さんをやってる内に分かってきました。 あと「迦多賀嶽」の多賀は多賀大社の多賀です。近江の多賀大社のご分霊を勧請するのです。播隆の前もやっていて播隆たちもやっているのです。多賀大社には記録は残っていませんが、文政年間に播隆たちが勧請したという記録がしっかり残っています。伊吹山の時は南宮山に南宮大社があるのですが、それの奥の院に籠っています。神社ですけれど、そこに播隆が行っているのです。 かつて、大社とか神社には半僧半俗の社僧とか坊人と言っている人がいました。普段は普通の生活やっていて、人が来たら参拝のお世話をしたり御札を配ったりとかする下働きする人たちが大勢いたのです。多賀大社には150人くらい常駐してたというのですが、その人たちの記録は全く無いのです。多賀大社の記録を見ていくと、江戸時代一番盛んな時に不動院というのがあって、社僧たちが多賀大社を守って一生懸命やっているのです。けれど、不動院は今跡形もなく記録もないのです。だから、正式なお坊さんではないけれども多賀大社にその人たちのグループがあったのは間違いないのです。それを考えると播隆さんの行動の謎が分かるのじゃないかなと思うのです。 播隆さんの行の師匠は蝎誉上人と見仏上人です。これは間違いないのですけれど、蝎誉上人を調べると、京都の一念寺、いわゆる浄土宗の法然ゆかりの古寺名刹と言われる立派なお寺になるのです。てっきりそこの住職だと思って行っても記録が無いのです。見仏上人は穂苅さんの本では大阪の宝泉寺になっていますが、僕が調べた限りでは分かりません。同じ名前が多数あり、浄土宗の教学の方へ行ったら「全く分かりません」と言われました。 けれど、御嵩町周辺にちょっと見仏上人の足跡がある。多分、見仏上人は歴史に残らない層の行者の一人で、その人を播隆が師として仰いでいたと思います。播隆さんが伊吹へ登るとか行場に行く時もそういう仲間グループがあって「あそこにいい行場がある」とか「修行する所がある」というのを聞いたのでしょう。何故上宝の杓子の岩屋へ行ったか分からないのですが、多分そういう人たちの仲間内で「飛騨には杓子の岩屋があるよ」と当たり前に言われてたのじゃないかと思います。伊吹山だと平等岩がありますよという風に各地に行場がいっぱいあって、そういう所を紹介されて行ったのでしょう。当時そういう世界にいたら皆知っている所に、播隆さんは行っているのではないか。推測ですが、そういうことです。 最後に槍ヶ岳ですけれど、播隆さんは5回登っています。文政9年と11年、天保4、5、6年です、一番重要なのは天保5年の開闢の年で、最初の文政9年に初登頂しています。 昭和の初めに笠原烏丸という人が「信州鎗嶽略縁起」という記録を見て、初めて2回目に登ったと書いているのをそのまま引っ張って来て、1回目は登っていないと言ったのです。初めて三尊を持って登ったのが2回目なのですけれど、なぜかそういうふうに解釈されて初登頂は1回目じゃなくて2回目だと略縁起に書いてあるからということです。けれど、いろんな史料との整合性とか他の状況を客観的に照らし合わせて言えば、初登頂は1回目で2回目が開山です。 僕も最初は初登頂イコール開山だと思っていましたが、どうもそうじゃないのです。宗教関係の人に聞いても山頂に行く必要はなくて、中腹でも開山宣言すればそれが開山だと言うのです。実際に辞書とか見れば開山とうのは寺を最初に開くことです。山岳に関しては初登頂イコール開山ということはないですし、いろいろ見た中で、山の開山そのものの定義が曖昧です。大らかに「山を開く」というのです。 前にも話しましたが、播隆は開山という言葉を使わずに開闢と書いています。その略縁起にも開闢と書いてあります。僕がそのことに最初に気がついたのは、さっき言った岐阜市の正道院の竹中さんという40代の若い住職の方と話した時に「黒野さん。何で播隆さんてあれだけ有名なのに槍ヶ岳開山上人って名乗らなかったんやろかな」という話です。そう言えば僕も史料で1回も開山と見たことないのです。 山岳の人たちにとっては重要なことだと思うのですけれど、播隆関係者の中では槍ヶ岳開山というのはあまり問題にならないのです。開闢が問題で、それが天保5年の4回目です。1回目はただ自分が登った。2回目は三尊を持って登ってそれが開山です。三尊といっても小さいものです。木を割って、割った断面にちょっと彫り込んでそこにはめ込んだ本当に小さい三尊を奉納するのです。次の天保4年の時は大きな足跡はなくて、天保5年にもう一つ加えて四尊にして、槍ヶ岳寿命神というのを作って播隆にとって完成なのです。 さらに、5年の時には善の綱をかけて山頂に平らにしたのです。「黒鍬の者たちが三間に九尺の平地にした」と書いてあります。愛知県の知多半島の方へ行くと黒鍬街道というのがありますが、黒鍬というのは農閑期の時に土木をやる集団です。その人たちは石を作ったり石積みとかに優れていて、その黒鍬の者を連れて山頂を平らにするのです。だから、最初の頃の槍ヶ岳はもっと突っ張っていたと思います。職人を連れていって岩とかを崩して平らにして皆が登れるようにした。さらに、そこに綱をかけてやる。坊主の岩屋を整備して拠点にする。そのようこととをしたのが天保5年です。 その時のことを略縁起に書くのですが、これは播隆が書いたものではありません。播隆の書には播隆の署名があって花押という手書きの判が書いてあるのですけれど、それには花押が無くて、播隆と書いてある隆の字が違うし書体が全く違うのです。播隆から聞いたことを信州側の地元の人が作ったもので、岐阜県側には残っていないのです。 何かトラブルがあったらしく、専門家にその版木を刷ったやつを見てもらったのですよ。そしたら、付録の部分が削られている。その削られたところが問題だという。専門家ってすごいとこを見るのですよ。「黒野さんこれもう一つ削る前のやつが本当は重要だよ。それは分かんないですね」と言う。そこの付録の部分だけちょっと書体も違うし文章が切れていて、多分そこに何かあるんです。僕が思うに、乾物類を扱ってた熱心な念仏の商人ですけれど、その人がちょうど松本の入り口で店を構えているのです。だから何かあったなと思うんです。 4回目の時に開闢して自分の願いをかなえ、5回目の時にはたくさん来ただろうと思います。地元の研究者に言わせると、参詣の登山者の案内をして大忙しにだっただろうということです。その時3ヶ月くらい留まっているのですが、大変ですよ。今の装備でも坊主の岩屋付近で3ヶ月留まるのはえらいことですが、そういうことやっているのです。 参詣人が来て案内する、そこでブロッケンに会う、ものすごい感動ですよ。例えば、庄屋の務台さんが登って初日は雲で見えなくて、次の日の朝播隆に連れられて登った。御来迎は無いのですけれど、帰って来て帰りに上高地で湯屋に入って里に帰ってます。そういう記録が残っているのです。もちろん険しい道だと書いてありますけれど、上高地に湯屋まであるのです。決して上高地は未開の地でも探検の地でもないのです。高貴な人たちから見ると未開かも分からなりけれど、普通の庶民から見たら当たり前の所でした。当時の上高地は仕事場で杣人たちが約250人ほどいて、しかも杣小屋が14個所もあってそこで生活の糧を得ている所に播隆が来るのです。ですから、播隆の中で槍ヶ岳開山の意識は全く無かったのだと僕は思っています。多分、猟師の誰かはそれより先に槍ヶ岳に絶対登っていますよ。登ったら周囲がよく見える。自分の猟場が見えるから行動する時も絶対いいじゃないですか。 播隆にとって一番重要なことは天保5年の開闢です。このことは穂苅さんたちと意見が合わないところですが、学問上は僕らも譲れないところがあります。山岳の人たちは初登頂を2回目の文政11年にしちゃいましたが、僕は従来言われていた文政9年初登頂、11年開山に戻すべきだと思っています。 あと、鉄鎖を掛けた時ですが、亡くなった天保11年の8月頃に掛けられたと思っていました。今年気がついたのですが、史料の解釈が間違ってました。いつ掛けられたか分からないのです。鉄鎖が許可され百瀬さんという有力者に松本藩から払い下げられるのです。そのお礼に行った記録が8月なのです。僕はそれを槍ヶ岳に鉄鎖掛け大願成就と読んでいたのですが、掛けたとは書いてないのです。払い下げのお礼に出向いたという記録だけが残っているのです。その前後で掛けられたのだろうけれど、播隆さんの生きてた時に掛けられたかどうかはちょっと僕は疑問に思っています。播隆さん亡き後、弟子とか信者さんたちが許可されたやつを掛けて、しばらくは登拝信仰を継続していたのだろうと思っています。 史料の読み方は本当に難しいのです。一つの史料をそのまま字面だけで読むと多分間違います。だからいろんな人、特に播隆さんにあまり興味の無い人に読んでもらうのが一番いいのです。円空好きな人が円空の史料を読むと目が眩んでしまうのです。僕らも播隆のバの字を見ると「ああうれしい」と思って、もうそれで気持ちがハイになってしまう。「播隆のことなんかどうでもいいや、普通の坊さんだ」というような人に史料を読んでもらった方が冷静に的確なことをおっしゃり参考になるのです。史料というのはただ読めるだけではダメですね。僕らも今まで分かっていた史料をいろんな人に読んでもらい史料批判していただいて史料の正合性の中で実像を浮かび上がらせていくことをやっている道中です。 ということで、とりとめない話になりましたけれど時間ですのでこれで終わります。最後に、岐阜県のお宝は円空さんでしょう。円空って言ったらその後播隆っと皆さんの口から出るくらい播隆を顕彰したいという思いで、ネットワーク播隆は今皆でがんばっています。皆さんもぜひ円空の話があったら「いや、播隆もいるよ」と言って下さい。ということで私の話終わります。どうもありがとうございました。(拍手)
平成25年11月7日 講演 |